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新・3大 マリーン・オッティの執念のスプリントまとめ【マツコ&有吉の怒り新党】

   

マツコ・デラックスのレギュラー番組『マツコ&有吉の怒り新党』(2015/5/13)で放送された、
「新・3大 マリーン・オッティの執念のスプリント」をまとめました。
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マリーン・オッティは、
1960年生まれジャマイカ出身の短距離選手です。

70年代後半から国際舞台で長期に活躍しており、
オリンピックの出場7回、
9個のメダル(金メダルなし)を獲得しています。

今回は年齢による衰えを跳ね返しながら、
自らの悲願である金メダルへと走り続ける、
マリーン・オッティの執念の走りだというレース3つを選定。

1996年 アトランタオリンピック 女子100m(新・3大その1)

7人兄弟の貧しい家庭で育ったオッティは、
奨学金を得るために陸上を始めました。

メキメキと頭角を表し、
20歳でモスクワ五輪(1980年)に出場します。

初五輪で200m銅メダルを獲得。
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しかし優勝候補だったロサンゼルスオリンピック(1984年)は、
100m 銅メダル
200m 銅メダル

でした。

さらに世界陸上(1987年)も、
100m 銅メダル
200m 銅メダル

と同じ結果。

優勝候補の実力はありながらも、
この結果ゆえにブロンズコレクターという屈辱的なあだ名で呼ばれるようになりました。
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そんなオッティの転機となったのが、
1988年ソウルオリンピックです。

女子選手のピーク年齢ともいうべき28歳のオッティは、
スターの引き立て役を返上するため悲壮な覚悟で臨みましたが、
ケガで100mを棄権しました。
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なんとか出場した200mでは、
4位と惨敗。

年齢的に引退すら考えていたオッティは、
思ったのです。

こんな終わり方では納得できない、
やっぱり自分はどうしても世界一になりたいと。

オッティは今までの環境を捨て、
新しいコーチに師事。

ベテランと思えないほどメキメキとタイムを伸ばし、
1989年から2年に渡る62連勝の快挙で世界ランク1位に君臨しました。
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そしてバルセロナオリンピック(1992年)を32歳の高齢でありながら、
優勝候補として臨むことに。

しかしここでも銅メダル

それでもオッティはレース後、
萎えることなくキッパリ言います。

「欲しいのはこの色じゃない!」

またも執念を燃やすオッティは、
36歳で自己ベストの10秒74を記録。

そしてアトランタオリンピック(1996年)に過去最高の仕上がりで臨みます。

36歳という年齢に抗い積み上げた実力、
金メダルを取るにはここしかないという大一番。

オッティはこの100m決勝で、
若者たちを相手に自己最高ともいえる走りを披露します。
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ほぼ同時にゴールイン。

オリンピック初出場から16年、
ようやく手が届きそうな金メダルは写真判定に。

結果は2位
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ほんのわずかな差で悲願の金メダルは夢と消えました。

しかし銀メダルを下げたブロンズコレクターに大観衆は、
金メダル級の拍手を送りました。

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2004年 アテネオリンピック 女子100m(新・3大その2)

1999年8月、
オッティに事件が発生しました。

それはドーピング検査の陽性反応。

過去20年間検査をクリアしている上に、
もっと検査を行なうべきと言っていたオッティは、
神に誓って無実!と必死に訴えたものの、
シドニーオリンピック1年前に出場停止処分を受けてしまいました。

このままではシドニーオリンピックに出られません。

オッティはなんと、
自腹で「ドーピング検査の方法」を調査。

「誤った数値が出る可能性」を証明し、
オリンピック2ヶ月前に無実を証明しました。

しかし年齢40歳で1年間のブランク、
「若手に出番を譲れ」とジャマイカ代表内部から批判を受ける四面楚歌状態。

オッティはその状況のなかシドニーオリンピック(2000年)に臨むのです。

6回目のオリンピックである今回ばかりは期待薄。

しかし世代交代に抗うオッティは、
また執念の走りを見せます。
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20代に混じり0.01秒差で4位です。

ちなみにこの時ぶっちぎりだったマリオン・ジョーンズは、
7年後にドーピングを認めます。

順位繰り上げでオッティは5枚目の銅メダルを獲得。

レース後のコメントでは、
「若い子たちが速かったわ」
「でも私も40歳の割には良かったでしょ?」

と話しました。

そしてこうも話したのです。

「頑張ってきたけど結局「金」は獲れなかったね・・・」

これはいよいよオッティは引退し、
若手のジャマイカ勢に道を譲るのかと思われました。

しかしオッティは国籍を変えることを決断します。
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コーチの母国スロベニアに国籍を移し、
代表を目指すことに。

そしてアテネオリンピック(2004年)。

そこには、
スロベニアのユニフォームを着た44歳のオッティの姿がありました。

オリンピック出場を24年間継続していオッティは、
女子100m1次予選において一回り以上も歳の離れた選手のなか、
執念の走りを見せつけるのです。
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タイムはなんと11秒14

もう44歳のスピードではありません。

結局準決勝で敗れたもののオッティは、
「苦手のスタートが今回は良かった!でも若い子たちが速かったわ〜」
と引退どころか手応え十分のコメントを残しました。

2012年 スロベニア代表選考レース 女子100m(新・3大その3)

2004年に衝撃の走りを見せたオッティもその後、
北京オリンピック(2008年)には出場することができませんでした。

オッティのタイムが女子100mの参加標準タイムを突破できなかったというニュースは、
彼女が築いた一時代の終わりを感じさせたのです。

しかしオッティが50代となる2010年代に入っても、
彼女はまだ国別リレーなどで活躍するバリバリのスロベニア代表。

オッティは言います。

「人は私に「オリンピック出場」も「金メダル」も無理だと言うわ」
「でも人間に不可能はない」
「私はそう信じてる」

数々の奇跡を起こしてきたオッティは、
50歳を超えてなお金メダルを狙います。

2012年52歳となったオッティは、
ある試合映像を通じて世界を驚愕させたのです。

オッティは自分の娘のような世代となったライバルたち相手に、
衝撃の爆走を見せます。
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若者たちと横一線の走りから、
ぐんぐん加速し優勝。

タイムは11.96
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今年4月の大会で日本のホープ、
19歳の土井杏南選手が11秒74。

それと大差ない52歳のオッティ。

もう恐ろしすぎるタイムです。

ロンドンオリンピック(2012年)も北京に引き続き出場できませんでしたが、
次も挑戦するとのことです。

 - マツコ&有吉の怒り新党

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